一九二九年八月二三日、ソ連はナチス・ドイツと不可侵条約を結び、翌月には二国でポーランド
を侵略して分割した。中国人の多くは、スターリンがヒトラーと取引したことに憤激した。おそら
くそうした感情を最も痛烈に表現したのは、中国共産党創設の父、陳独秀だろう。陳独秀は毛沢
東を共産主義へ導いた人物だが、自主性が強すぎるとして党から追放され、国民党に逮捕されて長
い年月を監獄で過ごしたあと、 一九二七年の第二次国共合作成立にともなって他の政治犯とともに
釈放された。今回のソ連の動きに対して、陳独秀は「悲憤」を表現した詩を書き、スターリンを疫
神になぞらえて非難した。スターリンとヒトラーが不可侵条約を結んだことにより、スターリンが日本とも同様の取引をし
て中国を第二のポーランドにする、という可能性が生じた。実際、まさにこのとき、クレムリンは
日本との停戦協定に調印し、外モンゴルと満州国の国境付近で続いていたソ連赤軍と日本軍との戦
闘に終止符を打ったところだった。蒋介石はポーランドにおける事態の展開に深刻な懸念を抱き、
その点をモスクワに質した。 一方の毛沢東は、この展開を歓迎した。抗日戦争に関する毛沢束の全
体戦略はソ連の介入を求めるという一点にあり、いままさにスターリンが中国の一部を占領して毛
沢東を責任者の地位に就けるというシナリオが現実味をおびてきたからである。
その年の九月、日ソ停戦協定についてどう思うか、というエドガー・スノーの質問に対して、毛
沢東は大歓迎だと答えた。「世界解放運動﹇すなわち毛沢東個人と中国共産党﹈の利益……に対す
るソ連の支援を妨げないかぎり」ソ連がそうした協定に調印してもかまわない、というのが毛沢東
の考えだった。「中国解放運動に対するソ連の支援」がポーランド占領と「似たような形をとる可
能性」があるかという質問に対して、毛沢東は、「それはレーニン主義の可能性として十分ありう
る」と、はっきり肯定した。ポーランド式のシナリオは、いまや毛沢東が中国のモデルとするとこ
ろであった。