毛沢東はモスクワのあしらい方を心得ていた。 一九二九年春、スターリンは毛沢東を撮影させる
ために、お抱えのドキュメンタリー映画監督ローマン・カルメンを延安へ派遣した。毛沢東は、カ
ルメンの来訪に備えてスターリンの著書を書斎机に広げて置いた。さらに、表紙を飾るスターリン
の写真がはっきり見えるような角度で本を手に持ち、カメラに向かって長時間ポーズを取った。毛
沢東はスターリンのために乾杯し、自分が外国で行きたい場所といえばモスクワしかない、スター
リンに会いに行きたいのだ、と語った。客洞の入り口でカルメンと別れの挨拶をしたとき、暗闇の
中で、毛沢東はわざわざモスクワの方角を尋ね、深いため息をついて長々と沈黙してみせた。「な
んという温かさをこめて毛沢東はスターリン同志の話をするのだろう―」と、カルメンは書き残し
ている。
、さらに多くの腹心をモスクワヘ送り込んだ。最初は林彪で、 一九二八年末に銃創の治療を理
由にソ連へ送りこんだ。林彪は日本人捕虜の外套を着ていたときに日本兵とまちがわれて国民党兵
士に撃たれたのである。
林彪はモスクワに見せても問題のない書類だけを厳選して携えていったので、スターリンに毛沢
東の策謀や本心が伝わることはなかった。林彪は毛沢東を「堅実で、決断力があって、確固たる原
則を持った中国共産党指導者」と持ち上げ、周恩来は「ペテン師」であり、「憲兵上がり」の朱徳
は「我々とは種類がちがう」と、こき下ろした。
林彪に続いて一九二九年六月にモスクフを訪れたのは、毛沢東の弟毛沢民だった。毛沢民の訪
ソも、表向きは「治療」が目的だった――ただし、ソ連側は、毛沢民の入院記録は一日もない、と
している。毛沢民の主たる任務は王明の評価を落とすことだった。毛沢民は王明を「壊人」(悪人)
と呼んでさまざまに非難し、とくに、スターリンの前で中国紅軍の兵力を誇張した、と告発した
――これは、致命的な告発になりうる内容だ。近く開催される党大会で王明の役割を格下げするこ
とも、毛沢束の狙いだった