王明は党大会で毛沢東に続く二番手として「組織報告」をおこなうこ毛沢東が二人目に派遣した「特使」は、周恩来だった。周恩来はちょうどョーロッパで戦争が勃
発した時期にソ連に到着し、九月一四日にクレムリン病院に入院した。落馬事故で骨折後うまく整
復できなかった右腕を手術してもらうためである。周恩来は、直前に毛沢東に帰伏したばかりだっ
た。これは全面無条件降伏で、その後ずっと周恩来は毛沢束の忠実なる下僕でありっづけた。周恩
来は毛沢束の評価を高めるべく熱心に働き、中国共産党指導部は「彼﹇毛﹈が総書記に選ばれるべ
きだと考えている」と、ソ連側に伝えた。また、中国共産党の方針が「抗日最優先」であることに
変わりはなく、落介石との「統一戦線」に協力する方針である、と請け合った。さらに、周恩来は
共産党軍の兵力と支配地域の拡大を詳細に報告し、八路軍は日本軍と二六八九回も戦闘をおこなっ
た、というように数字を膨らませて話した。中国共産党の党員数については、開戦時の「七倍にあ
たる四九万八〇〇〇人に増大した」と報告した。
周恩来を利用する一方で、毛沢東は周恩来の評価が高くなりすぎないよう画策した。
周恩来と一緒にソ連へ行ったオットー・ブラウンの存在も、毛沢東にとって気になるところだった。ブラウンは長征以前にモスクワから派遣された軍事顧間で、毛沢東がソ連に知られたくないこ
とを喋る可能性があった。毛沢民は抜かりなくオットー・ブラウンの戦術を「反革命的」と非難し
た――ブラウンを銃殺刑にすることもできるほどの告発である。それこそ毛沢東らの狙ったところ
にちがいない、と、生き残ったブラウンは主張している。周恩来も毛沢民と口裏を合わせ、かつて
の友人で親しい同僚だったブラウンを「中国革命の敵」と呼んだ(ブラウンによれば、「周恩来が
『首席検事』として登場」したという)。
後年、毛沢東は自分の政敵たちの行状を「告洋状」(他人のことを外国に告げ口する)と非難し
た。しかし、毛沢東ほどの誹謗中傷攻撃をおこなった人間は、ほかにいない。